地曳秀峰老師インタビュー 柔拳への道

第1回 切腹の作法と家伝の技

剛拳に対する柔拳の道を示された地曳秀峰先生。
この「柔拳」の峰へ到達されるまでを先生の幼いころにまでさかのぼって伺います。

白扇(はくせん)と色エンピツ

1927年2月21日、東京・麻布で、地曳秀峰名誉会長は新聞社に勤める地曳久宣(ひさよし)氏の次男として生まれた。その当時東京には、五年前の大正12年にあった関東大震災の爪跡がまだ色濃く残っていた。幼名(幼年時代の名前で昔はよくつけられた)を、丈尚と名付けられていた。(現在、本名・秀峰)

―幼かった頃のご記憶に残っている社会事件をお教え下さい。

地曳 今の人たちは、歴史の本でしか知らないと思いますが、二・二六事件(1936年)を憶えています。雪の降った日ですよ。青年将校が機関銃すえて集まってるって聞きましてね、ガキ大将だった私は友だちと一連隊つくって見に行こうって……(笑)。腰に短い竹の棒をさして、自分より小さい子を引き連れて、隣町の子とチャンバラごっこをして遊んでいた頃のことですよ。

― 地曳家は代々久留里藩ゆかりの家であった。本家屋敷内には駐在所(交番)と郵便局があったというからその隆盛は想像できる。母方の実家は津軽藩・藩主の身辺警護役である「馬廻り役」を仰せつかる家柄であった。その母方の祖父が白扇(書画のない白地の扇)を持って切腹の作法を教えたのが丈尚3才の時だった。

地曳 まだ、祖父の膝にのって遊んでる頃ですよ。「お前は武士の子だから」と言われましてね。武士というのは、首を斬られるのは罪人だが、切腹をするのは名誉なんだから作法を知っておかなければならないというわけです。三方(神仏などに供えるものをのせる四角な台)を腰の下に敷いて、着物の上を脱いでその袖を膝の下に敷くわけです。そうすると後ろにひっくり返らないですみますからね。祖父は絵を描いてくれましてね、面白いのは、今でも憶えてるんですが、色エンピツを使ったんですよ。腹切ると血が出るでしょ、赤い色でヒュルヒュルって描いていたんですよ。

― やがて武道を習い始めたのは、小に入学してからのことだった。

地曳 その頃は、男子は武道を習うのが義務だったんです。それで柔道と剣道をやりました。祖父の影響で少しは家伝の剣術とか柔術の手ほどきを受けていました。殿様に仕えていた頃の家伝の技をね。でも、体が弱くて、病気ばかりしていたから本格的にはできなかったんですよ。小でやらされた柔道も剣道も好きになれなかったんですね(笑)剣道は特に好きになれなかった。冬の朝の寒稽古を思い出しますね。朝6時頃、剣道具を持ってに行くわけです。東京も昔は寒かったんですよ。水をまくと、すぐ凍ってしまうくらいでした。それが、素足での体育館で剣道をやるわけです。先生が相手になってね。先生が上からポーンポーンと打つ。こっちはエ-イッという感じで行くと、先生は上からヒョッとこう打つ(笑)。先生は大きいけれど子供は小さいから竹刀がここに当る。防具の一番薄い所で痛いわけです。それで嫌になりましたね(笑)。

― 両親は病気がちの息子に心を砕き、転地療養をさせたり、環境の良さを求めて転校させたりした。その中で自分の身を守る技術を身につけたいと思ったエビソードがある。

地曳 小の頃、千葉県外房の茂原の近くにある一の宮の別荘へ転地療養に行きました。1~2年居るので土地の小に入りました。その頃、何というか都会の子だからということで、いじめられるわけです(笑)。今でいうところのいじめられっ子ですね。土地の子は皆んな着物に羽織を着てたんですが、こっちは生意気に洋服に靴、その上帽子までかぶってる(笑)。生意気に見えるしうらやましい。それで、いじめられましたね。ところが、こっちは武士の子だから絶対に負けるもんかってハッタリで頑張ってる(笑)。だけど体が弱くて、その上やせて小さかったから、実際に腕力でもってかかられるとかなわないわけです(笑)。それで身を護る技術を習いたいなあと思っていましたね。ひとつその頃の笑い話のようなエピソードがあるんですよ。ある時ケンカになりましてね呼び出されたわけです。こっちは一人なんだけど、むこうは何人かで待っている。それでね、剣道着を着て、袴はいて、竹刀持って行ったんです(笑)。そしたら、みんなびっくりしてキャーッて逃げて行った。それで済んじゃったんですよ(笑)。

その後、本格的な武道の修業時代が始まることになる。

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